「産婦さんの力を引き出す助産師」国際支援から得た助産観~国際支援編~

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看護学生の進路の1つとしてよく挙げられる助産師ですが、助産師は色々な場所で活躍しています。産婦人科・産科クリニック、助産院、保健所、保健センター、国際協力活動などで働いています。現在新型コロナウイルスにより、孤立しやすい社会が出来上がっており、特に妊婦さん、産後のお母さんはホルモンの変動の影響で精神的に不安定になりやすいです。そのような妊婦さん、お母さん達が安心して地域で生活できるようにサポートするのも助産師の1つの役割です。今回はJICAの青年海外協力隊での経験を活かしながら地域で活動されている助産師の中井悠野先生にインタビューをさせて頂きました。

後編の助産院編こちら

文章 宝積 渚

国際協力への道のり

Q中井先生が助産師になられたきっかけは何ですか?

A.看護学生の初めての母性の授業で分娩のビデオを見て、生まれてくる赤ちゃんの力強さ、頑張るお母さんの姿に心を打たれ、助産師になりたいと思いました。助産師学校に行けるのは私の学校からは毎年数人だったので、勉強を頑張らないといけなくてとても大変でしたが、受験を乗り越えることができ、助産師学校に1年間通いました。助産学生時代は忙しかったけれども、自分が学びたかったことを学べるので、勉強がとても楽しく、充実した学生生活を送ることができました。助産学生の時は、とにかくがむしゃらに勉強していました。

Q助産師になられてからはどのようなお気持ちでお仕事をされていたのですか?

A.助産師として働き始めた時は、早く1人前になって1人でも多くのお産に携わりたいという気持ちから働きたくてたまらない日々を過ごしていました。助産師3、4年目からは、何か自分の強みを持ちたいと思うようになりました。そこから、ベビーマッサージや食育の資格を取得して、お母さん同士の触れ合いの場を作るために育児サークルを立ち上げ、お母さんの悩みを聴かせて頂いたり、赤ちゃんの成長を一緒に見守らせてもらったりしていました。

QJICAの青年海外協力隊に志願された理由、きっかけを教えて下さい。

A.私が海外での活動に初めて興味を持ったのは10歳くらいのときです。「世界がもし100人の村だったら」という本を読んだときに、世界を身近に感じ、大きくなったら子どもたちが健康に生活できる社会にしたいと思いました。しかし、英語が苦手なこともあり、国際協力の夢を諦めて看護学校にそのまま行きました。私のころは国際看護という科目が無く、海外で医療活動を行うということが1つの学問として確立していませんでした。でも、海外で活動してみたいという気持ちを諦められず、自分の思い付く限りのことを沢山やりました。学生時代は発展途上国の状況を自分の目で見たいと思い、夏休みを利用して短期の発展途上国のボランティアに参加したりもしました。また、英会話スクールに通ったり、英語の勉強を沢山行いました。

 JICAに志願してみようと踏み切れたのは助産師4年目のころです。助産師としての仕事はとても楽しかったけれど、心のどこかで発展途上国で助産師として活動してみたいという気持ちがありました。「20代のうちに自分のやりたいことはすべてやっておきたい」、「自分の人生キャリアを考えた時にやれるのは今しかない!」と思いJICAに応募しました。

現地の人の工夫をみて感じた嬉しさ

Q中井先生は派遣されたガボンではどのような活動を行われていたのですか? 

A.私はJICAからアフリカのガボンで母親学級を普及するように要請されていました。青年海外協力隊は必ずしも自分が希望した国に行けるのではなく、希望した国でどんなことをしたいか、派遣先の国がどういうことを望んでいるのかで決まります。元々ガボンは私が派遣希望を出していない国で、派遣先が決定するまで名前も場所も知りませんでした。でも、母親学級なら日本でも助産師として働いていたので何か役に立てるかもしれないと思い、行かせて頂くことにしました。

 派遣先では大学病院や保健センターの助産師・看護師へ母親学級の巡回育成指導を実施しました。また、視覚教材として妊婦体操やベビーマッサージ、現地の助産師さんに産婦役になってもらった演劇風の分娩のビデオなどを作成しました。加えて、ガボン全土で同じレベルの母親教育ができるように現地の助産師さんの協力のもとテキストを作り上げました。日本人だけで母親学級の教材を作成するのではなく、現地の助産師さんを巻き込むことを意識して行っていました。日本人が帰国した後も現地の助産師さんたちが母親学級を継続してもらうためです。

 私がとても嬉しかったのは、母親学級の教材を使用し、実際に母親学級を行っている様子を見学できた時でした。その中でも、ある病院ではお湯が出ないため湯船で赤ちゃんを洗うというデモンストレーションができないのですが、最低限の清潔を保つという事を目標として、臍の消毒のみお母さんたちに実演するという指導内容の工夫がみられました。日本人がやっているからやるというのではなく、自分たちの環境に合わせた工夫をして問題をクリアするという動きがみられ、とても嬉しかったです。

現地の方が作成した母親学級の可愛いデコレーション

文化の違いによる苦労

Q中井先生がガボンで青年海外協力隊として文化の違いで苦労した点はありますか?

A.派遣された当初、ガボンの妊婦さんの現状や全体像を把握するために、妊娠・出産回数、生活環境、食生活や病院までの交通手段、性生活などアンケートを取ろうと考えました。しかし、ガボンの人たちはアンケートに慣れていないこともあってか、私の意図や計画が伝わらずにゴーサインが出なくて凄く苦労しました。「なんでこんなことをするのか分からないわ」とツンとはねられたり、幼稚園レベルのつたない自分のフランス語では分かって貰えず笑われることもありました。アンケートに限らず日本人である私の活動の意図や必要性を分かってもらう事はとても時間と労力を費やしました。

 他に苦労したことは、ガボンの人たちは人と人との繋がりを重要視していることから、家族を優先する生活をしていました。そのため、仕事に予定通りに来ない、来ても早く帰ってしまう、集中力が続かないなど、仕事に対しての意識が日本人の私とはギャップがありました。けれど、ガボンの人たちは1度私の活動を理解をしてくれると、その必要性に賛同して協力的になってくれました。特に助産の大切な部分はガボンも日本も一緒なので一度理解してくれたらその後は早かったです。

ガボンの「人と人との繋がり」は安心感を創る

Q中井先生にとってガボンとはどんな国でしたか?

A.ガボンは中部アフリカに位置しています。ガボンの人達は自分の国がとても大好きで、家族や身近な人達を大切にするという特徴があります。なので人と人との繋がりやコミュニケーションを凄く大切にしています。家族を優先する生活なため、活動がうまく進まないこともありましたが、それでもその環境の中にいると私もガボン人からたくさんの安心感をもらって生活することができました。

中井さんがホームステイ先で食べた現地の料理

Q中井先生がガボンでの活動で学んだことは何ですか?

A.私がガボンでの活動で学んだことは3つあります。1つ目は現地の生活をより楽しむことが支援にとって大切であるということです。衣食住を体験したり、現地の人との関わりをとったり、イベントに参加したり、国内旅行などをしました。これらのことを通して、よりガボンのことを理解できるようになり、ガボンの人達のことを深く知れるきっかけとなりました。この経験から国際協力ではその国の生活を楽しむこと、その国の生活に合わせてみることがとても大切であると思いました。

 2つ目は、現地の人が当事者意識を持ち、必要性を感じてくれることが国際支援において大切であるということです。活動を通して、国際協力を日本人だけがやるのではなく、ガボンの人達自身が必要性を感じて、自分事として考えてもらえるように支援する事がとても大切であると分かりました。そのことが分かってからは、現地の人達が自分たちで運用したり、できる限りの継続性を持って日本人が帰ったあともその施設に根付いて母親学級を継続してもらえるように考えながら活動しました。 3つ目は、人と人との絆を大切にして生活することの重要性が分かりました。ガボンの人達は身近な人を大切にする精神がとても強く、いったんコミュニティに入れてもらえれば、凄く居心地が良く、安心感を持って過ごすことができました。20代前半は仕事が大好きでせかせかした生活をしていましたが、ガボンの国の魅力に触れたことで1対1の絆、身近な人との絆を大切にする生き方をしたいと思うようになりました。これは私の生き方だけでなく私の助産の考え方にも影響しました。「1人の妊婦さんと長く丁寧に関わりたいな」と思うようになり、今年の4月から助産院を設立することに至りました。

後編の助産院編に続く⇒こちらから

~中井 悠野先生プロフィール~

中井悠野(なかいゆの)先生

大阪出身、大学病院で助産師として6年間勤務後、青年海外協力隊として中部アフリカのガボン共和国で母親学級の普及活動や中高生への性教育活動を行う。帰国後は出張専門≪ゆの助産院≫を開院し、地域の母子保健に従事する。

ゆの助産院HPのURL⇒https://mosh.jp/bebe-josanin/home

ゆの助産院InstagramのURL⇒https://www.instagram.com/yuno.josanin/

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