『アメリカで救急医をやりたい!』一人の医学生が野心を叶えるまで

海外

志賀 隆(しが たかし)先生は日米両国の救急科専門医資格を所得している数少ない医師の一人。海外への強い関心から始まり、米軍病院でのインターン生活、米国の医師資格取得までの経緯を深堀りしてお聞きしました。

文・デザイン/吉富櫻嘉 構成・写真/稲垣麻里子


聞き手(50音順)


 


ゲスト


国際医療福祉大学三田病院救急部部長、同大学医学部准教授。千葉大学卒。沖縄米海軍病院でインターン後、浦添総合病院救急救命センターで救急科専門医となる。渡米後、Mayo Clinic, Department of Emergency Medicineでレジデンシー、Massachusetts General Hospital, Department of Emergency Medicinでフェローを修了し、米国救急科専門医となる。帰国後、東京ベイ浦安市川医療センターにて救急科部長を務め、日本救急医学会認定指導医となり現在に至る。

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留学に興味を持ったきっかけ

留学に興味を持ったのはいつ頃ですか?

中3の時ですね。塾の英語の授業で、帰国子女の人が英語の文章を本当にスラスラ読み上げていて、「同じような顔しているのになんでこいつはこんなに喋れるんだ!?」ってその時猛烈に嫉妬しましたね。それと同時に海外に強い憧れを抱くようになりました。

大学では国際保健系のサークルに入って、1年生の時に初めての海外旅行でフィリピンのセブ島に行きました。そこでハンセン病施設を訪ねたのですが、患者さんやその家族が貧しいのにとても楽しそうにしていたのにびっくりしましたね。
日本は物質的には恵まれているし、自分は浪人を経験していて、その時は不幸の極みだと思っていましたが、幸せかどうかは物質的な豊かさじゃなくて本人の感じ方次第だって、幸せの相対性に気づいたんです。

医学生時代の海外留学

医学生時代に海外留学はされたんですか?

6年生のときに1ヶ月間、医学教育振興財団のプログラムでイギリスのバーミンガムへ留学しました。当時はどんな患者さんがやってきても、まんべんなく診療できるジェネラリストになりたくて家庭医を志望していました。日本は消化器内科だと内視鏡、循環器内科だとカテーテルしかやらなくて、大学の先生に私はジェネラリストになりたいって相談しても、やめとけって相手にされませんでした。「日本には自分のなりたい医師像はいない」と思って、古くから家庭医の制度が導入されているイギリスを選びました。

救急医の道に進むきっかけ

卒業後、初期研修の病院はどのように選んだのですか?

当時はジェネラリストになりたかったので総合内科が充実しているのと、救急がちゃんとしている病院の方が比較的良い病院だと言えるので、救急救命センターがあるということを重視して東京医療センターを選びました。

初期研修の中で救急に興味を持つようになったということですか?

そうですね。ある日、救急に蕁麻疹の患者さんが事務の人と口論になっていたんですね。その会話をよく聞いていると、事務の人は「診るかどうかを決めるのは私じゃなく、上級医の先生です。もしかしたら蕁麻疹じゃない場合もあるため診察はお断りします。」と言って蕁麻疹の患者さんの診察を断っていたんです。患者さんとしては「病院に医者がいるのになんで診てもらえないんだ!」と不審に思ったにちがいありません。
私はこの時、間違っているのは患者さんではなく自分たち医療者側だと確信したんですよ。それと同時に救急は面白くてやりがいもあったし、「もっと患者の対応ができるようになりたい!」と思いました。救急医は医療の現場から求められているにもかかわらず、まだまだ発展途上だなと痛感し、救急の道に進もうと決めました。

インターンとして沖縄米軍病院へ

そんなことがあったんですね!
初期研修後、インターンとして沖縄米軍病院に行かれたのはなぜですか?

初期研修の時からずっとアメリカに行きたい気持ちがありましたからね。アメリカ式の医療を学びたいと思い、初期研修で横須賀米軍病院を志望したのですが、落ちてしまい、研修2年目にもまた落ちたんですよ。私は医学部に入るのも浪人していたので、挑戦と失敗の連続です。でも今思うと、その経験がすごく大事なことだったと実感しています。若い人たちにはどんどん挑戦して、失敗してもらいたいですね。

横須賀は落ちて、沖縄に受かったんですね。沖縄の生活はどうでしたか?

横須賀は東京から近いから倍率高かったですね。だけど沖縄の病院の方が圧倒的にやってることは面白かったです。横須賀の病院では年に5000人くらいしか救急外来で患者さんを診ませんが、沖縄では年に1万5000人の患者さん(米軍とその家族、引退軍人、基地で働く民間人など)が救急外来に受診に来ます。症例の多くは子供の捻挫やトレーニング中の怪我、軽い交通事故などです。たまにヘリの墜落事故や心筋梗塞、脳梗塞なんかがあると緊張感が高まります。治療は米軍式だったので、アメリカに行きたい私にとってはすばらしい環境でした。薬の名前も米軍式で日本のと全然違って大変でしたが、アメリカに行きたいという強い気持ちがあったので一生懸命勉強しました。

いざ、アメリカへ!

それでアメリカの病院に行かれたのですね!

私含め同期6人全員渡米しましたよ。3年連続で全員。そのほとんどは内科や家庭医としてだったのですが、私は救急で行きました。救急だと渡米にあたって要求される点数や競争が一段と高いんです。みんなからは無理だって言われてたけど、「いやいや一緒にしないでくれ。I’ll make it happen.(俺はやってやるよ)」と思い、実行しました。

流石ですね。かっこいいです!

インターンとUSMLEの勉強の両立

インターンをしながらUSMLEの勉強をされたんですか?

そうです。実は沖縄の米軍病院は結構時間があったんですよね。朝7時からカンファレンスやって、午後3、4時には終わってそのあとはフリーなんです。シフト制で6人中一人は12時まで救急だけど、それ以降は自由だからUSMLE step1の勉強をしてました。

働きながら勉強するなんて、挫けそうにならなかったんですか?

もちろん挫けそうになるときはたくさんありましたよ。だけどやっぱり、いつかアメリカに行けるという環境にいたのが支えになったと思います。環境を選ぶのは重要です。東京医療センターでは変人や宇宙人扱いされていましたが、米軍病院は自分にとって大変良い環境でしたね。もう一つ支えとなったのは、アメリカから戻ってきて日本の医療を変えたいっていう強い信念があったからです。

ちなみに日本の国家試験の勉強はUSMLEの勉強をするのに役立ちましたか?

当時、日本の医療とアメリカの医療はだいぶ乖離していました。「ハリソンは読むな、朝倉を読め。」みたいな。だから、国試のためにイヤーノートやってたんですけど、アメリカではもう間違いってされている内容が粛々と書かれてあるんですよ。
在学中に両方とも受かった優秀な人もいるけど、中途半端にやると両成敗にもなりかねないので注意が必要です。USMLEに受かっても日本の国試に落ちることもあるので。

卒業前にstep1合格を目指している人は、よく考えた上でしっかりと計画を立てて勉強したほうがいいですね!


志賀先生インタビュー記事第2弾、タイトル「アメリカで医師として働くこと

世界一と称される米国病院・メイヨークリニックとのマッチングやアメリカの研修病院の選び方、レジデンシーのリアルな1日、さらには給料やプライベートのお話も!

これを読めばアメリカで医師として働くことについて、より具体的なイメージが持てるようになることをお約束します。

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